勉強は楽しくなくて良い
このサイトの運営を始めて1年程経ったが、記事を書くよりもネタを考える方が難しい。
過去問のレビューを書くことでも記事を作ることができるので、そちらはまだ気が楽なのだが、「勉強」そのものに関する記事を書こうとするとなかなか筆が進まない。
その差異を考えてみたのだが、結局のところ勉強は「楽なこと」でもなければ「楽しいこと」でもないからなのではないか、という一つの結論に達した。
巷の参考書を眺めてみると、「古典:5日間でマスター」、「楽しく身につく数学」といったなんともお気楽なタイトルが溢れているが、実態はそんなにシンプルではない。
例えばあなたが4歳で微分積分を理解し、12歳で英検1級に受かる、といった天才児であれば5日あれば古典はマスターできるかもしれないし、数学も楽しく身につくかもしれない。
しかし、世間一般の人であれば、古典を5日でマスターすることはできない(そもそもマスターとはどういった状態を指すのか?)だろうし、数学の問題を解くのも苦痛だろう。
残念ながら現実はそこまで甘くない。
この記事では、なぜ勉強が楽しくないのかを紐解き、その上で勉強への取り組み方を考えていきたい。
「楽しいこと」とは
ディズニーランドに行くのは楽しい。
ゲームをするのは楽しい。
YouTubeをみるのは楽しい。
友達と遊びに行くのは楽しい。
では、なぜ勉強は楽しくないのか。
前半に挙げたものは、いずれも「楽しむこと」を目的に作られたものである。
施設がしょぼく、マスコットもいない遊園地には誰も行きたがらないし、面白くないゲームやYouTubeは淘汰され、一緒にいて楽しくない友達とわざわざ遊びに行くこともない。
楽しいことは、当たり前だが徹頭徹尾「楽しむこと」を目的としている。
時々勉強自体が好きだという人もいるにはいるが、少数派だろう。
勉強それ自体は、楽しむことを目的としていないので当然だ。
勉強は、勉強そのものが楽しいのではなく、「できるようになると楽しくなる」という類のものなのだ。
部活を例にしてみよう。
「できるようになると楽しくなる」こと
あなたが部活に入っているのであれば、部活のことを想像してほしい。
帰宅部であれば、ゲームでもバイトでも良いので、自分の好きなことを思い浮かべてほしい。
楽しくなっていく過程
大抵のことに共通しているのだが、最初は何をやってもそこまで楽しいものではない。
はじめるときも、友達や両親に勧められたり、ドラマや漫画に影響を受けて、というなんとなくの理由が多いのではないだろうか。
例えば野球であれば、最初はキャッチボールもまともにできないし、バットを振ってもボールに当たらない。ミスをすれば顧問に怒られ、先輩に怒鳴られ、同級生に馬鹿にされる。どうしてこんなことやらなくてはいけないのか、という気持ちを抱いたことがある人も多いだろう。
運動にしろ音楽にしろ何にしろ、できないうちは楽しくないのだ。
それが、練習を積むことで、思ったようにボールを投げることができる、相手が投げるボールも難なく取れるようになる、打球にバットがあたりより遠くに飛ぶようになっていく、と徐々に上達していく。
怒られる回数よりも褒められる回数が増えてきて、先輩からも声をかけてもらえるようになり、同級生にも頼りにされ、と自分の周りの環境も良い方に変わってくる。
そうすることで、ようやく楽しいと思えてくる。
そういった好循環に入ることで、「もっとうまくなるにはどうすれば良いか」という次の段階へと進む。筋トレで身体を作る、上手い先輩の真似をしてみる、顧問にアドバイスを求める、と思考や練習量といったリソースを自分で割り振るようになる。そこに熱意もあれば、自主練、居残りといった足りない部分の補完をすることもあるだろう。
そうして、上手くなっていくと、試合に出られる、スタメンになる、試合に勝つ、とった風に結果へとつながっていく。
楽しくなった先
更に野球を例にしてみよう。
本番の試合ともなれば1試合3時間以上かかり、延長を考えるとそれ以上もざらにある。
ベンチ外で声出ししているだけの3時間は間違いなく疲れるだろう。全く試合に出ることができない立場なら、早く終ってほしいと思うのも仕方のない時間だ。
しかし、自分が選手の場合、あるいはベンチから出場する可能性が高い立場になると、この退屈な時間があっという間に感じる。
守備では、いつボールが飛んでくるかわからない緊張感、内野と外野の連携の確認、天候や相手打者による守備位置の微調整など、考えることはいくらでもある。
攻撃時も、自分の打席だけでなく、他の人の打席でもピッチャーのボールを見極め、タイミングをつかもうとしたり、様々なこと自分事として考える。
試合後に関しても、ベンチ外であれば「早く帰りたい」「次はベンチに入れるかな」などとだけ考えるだろう。
それが、試合に出ていることで「あの打席ではこうするべきだった」「守備のときこうすれば打球が取れた」という反省点を考えることになる。次の練習の課題や目標など、建設的な考えに繋がっていく。
つまりは、こういった活動に関しては最初から楽しむことが目的ではない、というだけでなく、楽しくなるためには上達する必要がある、とも言える。
勉強も、これらと同様にできるようにならなくては楽しめないものなのだ。
勉強はまず、できないことを悔しがろう
勉強が面白くないのは、できないからだ。
この主張を進める前に一つ注意点をあげると、部活と勉強では違いもある。
部活はそもそも、好きなことを上手くなろうとするものなのに対して、勉強はやらなくてはいけないと強いられる、この違いが大きい。
部活は頑張れるが勉強はやる気になれないという人は、他人から強いられている感覚が大きいのだろう。「どうして勉強しなくてはいけないんだ」という思いがあると、どれだけ優秀だろうがやる気にはならない。
つまりは、部活や趣味、勉強はどれも「できるようになると楽しくなる」類のものではあるが、興味をもったものかどうか、という点で決定的に異なるわけだ。
しかし、それで良い。
普通の感覚であるならば、勉強は「つまらない、面白くない、やりたくない」ものだ。
モチベーションにすべき感情を変える
ただそれでも、勉強が大事であることだけは理解しているだろう。
行きたい大学に行けない、就きたい職業に就けない、必要な資格の条件を得られない。
理由は何であれ、いつまでも勉強から目をそらすことが良くないとわかっているはずだ。どこかで腹をくくる必要がある。それが早ければ早いほど、結局自分のためになる。
勉強を始めた最初はつまらないだろう。
小学校の算数や国語のように、四則演算ができるようになって買い物ができるようになったり、常用漢字を覚えていくことで本が読めるようになったり、といったわかりやすい効果を得ることがだんだん学ぶ内容が難しくなるにつれて、なくなっていく。将来の役に立つのか、と懐疑的にもなるだろう。
それでも勉強を続けよう。
勉強を面白い、と感じる瞬間を自分で作りだそう。
そのためにも、できない時にバネとすべき感情は、楽しいだとかつまらないといったものにしないことが肝要だ。できないうちに胸のうちに置いておくべきなのは、「できないことを悔しい」という感情にすべきだ。
部活なら試合に負ければ悔しい。
練習でうまくいったことが本番でできないと腹が立つ。
それと一緒にするのだ。
勉強においても、できないことが悔しい、次はできるようになってやる、という気持ちをもてるように、できないときの感情を大事にしよう。
勉強ほど成果が数字で出やすいものもない。
頑張れば試験の点数が上がる。偏差値も高くなり、より上位の学校を目指せるようになる。それだけで立派なモチベーションだ。
最初のうちは、出来ないこと自体を悔しがろう。その悔しやをバネに積み上げる努力が、勉強を面白いと感じるようになる最初の一歩になる。
勉強に王道はない
ここで、冒頭の話に戻ろう。
記事を書こうとしてもなかなかネタが浮かばない、というのも、そもそも勉強に王道がないからだ。わたしも、5日で古典がマスターできるのあればいくらでもその方法を伝えたい。数学を最初から楽しめるのなら、その感覚を教えてあげたい。
しかし、大事なことこそ地味なのだ。
地道にコツコツ勉強していく以外に上達の方法はない。
だから、このサイトで読む記事には面白みもなければ、新たな発見もないかもしれない。
どこまでも受け入れたくない事実が列挙されるだけだろう。
この記事も、耳の痛いことしか書かれていないかもしれない。
しかし、大事なことはいつも地味なことなのだ。
記事を書くネタに困ったとき、この地味ながらも大切なことを改めて思い起こされた。
この気付きは、勉強を続けてきた中になる小さな成功体験がなければ生まれなかったはずだ。
編集後記
わたしが勉強が楽しいと思えるようになったのは大学に入ってからだ。
暗記作業から離れ、レポートや小論文というものに出会ってからだ。
情報を収集して得る客観的事実と、それらをまとめた上で出てきた自分の意見で構成されるレポートを、その道の専門家である教授にみてもらえる。そのフィードバックをもらえる。
それまでのように、入力した知識を問題用紙に出力するだけではない。
恣意的に入力した知識に自分の考えという処理を施した上で出力し、それがまた高度な処理を経て返ってきて、知識が磨かれていく。
これほど楽しいことが他にあるだろうか。
勉強というものは、これ程までに楽しいのか、とその時初めて思えたような気がする。
そうして初めて、もっと学びたくなった。
学べば学ぶほど自分がいかに無知かを知り、そしてまた学ぼうとする。
ここまで勉強は面白くないと書いてきて翻すのもなんではあるが、実をいうと大学受験のときからすでに勉強が苦ではなかった。
特に、浪人中はもはや生活の一部として勉強をしていないと落ち着かなかった。
もちろん受験生なわけだから勉強をしなくては、という気持ちも当然にあったと思うが、それよりも試験の結果が一種のゲームスコアのように捉えていた節がある。
頑張るとスコアが上がる。上達すればするほどより難しい問題、大学に挑戦できる。
そういうスポーツ的な感覚が出てきて、勉強が面白かった。
こういった感覚をもっている人も一定数はいると思う。
そういった人は、そのまま大学でも真摯に勉強を続けてほしいと思う。次元の違う面白さを体験するためにこそ大学に行ってほしいと切に願う。
受験生は、そろそろ最後の大会が終わって部活を引退する頃だろうか。
毎日嫌で嫌で仕方がなかった部活もいざ終わってみると寂しいものではないだろうか。
大会が終われば自然と涙が出てきたという人もいるだろう。
部活は終わったかもしれないが、学校生活は続く。
次の大会は大学入試だ。
3月、入試が終わった君はどんな気持ちになっているだろう。
後悔なのか達成感なのか。
充実感なのか、再挑戦したいという気持ちなのか。
入試が終わった君は何を思うだろう。