自学自習を突き詰める
わたしが受験勉強を終えたのはもう10年以上前の話になるのだが、予備校で勉強したことをしっかりものにできていただろうか?と未だに思ってしまうことがある。
10年も経ってそんなことを考えるのか?と思う人もいるだろうが、このサイトを運営するにあたり、共同運営者の友人と自学自習の重要性に関して何度も意見を交わすことがあった。そのテーマで話していると、両親に負担をかけてまで通っていた予備校での学習経験は、いったいどれだけ効果を発揮していたんだろうか、と考えてしまうのだ。
恐らく社会人になって金銭の重要性をより深く理解できるようになったからこそ、という理由もあるのだが、今までの経験から自学自習がもっとも効果的であるという実感が強いからかもしれない。
本記事では、わたしの主観たっぷりで自学自習の重要性を述べていこう。
講習や講義は、足りないところや一人で全く理解できない部分を補うために使う、という形をおすすめしたい。
授業や講義は受けるだけで十分?
面白い授業や講義は数多くある。
そういった授業であれば、座って聞いているだけで理解が進んだように感じるし、問題が解けるようになる!と錯覚してしまうこともあるだろう。
今まで受けてきた全ての授業がことごとくつまらなかったという不幸な学生もいるかもしれないが(あるいは学習姿勢が悪かったために享受しきれなかったかもしれないが)、面白い授業は本当にあるのだ。
しかし、授業や講義のみで学習が完結させることができるのは、一度聞いただけで全て記憶・理解できるような一部の天才だけだろう。彼ら彼女らを除けば、聞いただけで問題ないレベルまで学習が進むことはほぼありえないと言っていい。
たった一回の学習で習得することはできないから、カリキュラムでは単元ごとに何時間かけて学習するかが決められているわけだ。
予備校の講義であれば1回90分で単元全てを網羅するようなものもあるが、大抵の場合はそこまで深堀りするような授業にはなっておらず、難関大学の類似問題のような、重要なポイントを抑えて流れに沿った説明や解説をしているだけに過ぎない。話し手が上手いために、凝縮して講義という形にすることが出来ているだけである。
つまりは、授業や講義のみで学習を進めていくことはほぼ不可能というわけだ。
そうした場合、予習復習を基本とした自習が必要になってくる。
学習量を確保するための自習
学習内容が難しくなってくると「設定されたカリキュラム内で理解しきること」が困難となる。
それまでと同じように勉強していたのに成績が落ちた、上がらなくなった、という類の悩みは、単に理解に必要なだけの学習量を確保できていないことが多いわけだ。理解に必要な学習量が賄えなくなったとき、こういった悩みが噴出することになる。
苦手な単元や難しい単元には相応の時間をかけなければ理解できない、という当然の帰結ではあるのだが、必要量をこなさずに、ただ単に成績が下がってしまったと嘆くのは問題があるといえよう。
そういった状況を打破するためには、自習しなければならない。
理解までに必要な勉強時間の確保は個人の責任なのだ。
理解を深めるための自習
単に自習と言っても、机にかじりついて教科書相手に一人で勉強し続けろ、というわけではない。不明点が明確であれば教師や講師に質問しにいくべきだし、自分の苦手なポイントが把握できていれば評判のいい参考書を買ってみたりするのもいいだろう。
大切なのは、授業や講義以外に勉強する時間を確保し、自分なりに理解することだ。
最終的には自分で勉強を進め、要点を暗記し、対象を理解し、「解答」という出力結果を得られなければ、受験勉強という観点ではきちんと勉強できたとは言えない。
そこまでの学習は、授業や講義では決して完結させることはない。
先程は勉強時間の確保という観点から自習の必要性を説いたが、それ以上に大切なのは自分なりの理解を深めること、そして演習を行なうことなのである。
そういった時間もまた、自分で確保しなければならない。
何度も繰り返し学習する機会
自習が大切であるという主張は、突き詰めれば「大半のことは繰り返し学習しなければきちんと理解できない」という主張にも繋がってくる。
自習は、授業や講義でほぼ行わない「反復学習」を行なうことのできる唯一の状況だ。
もちろん、過去の単元をとりあげた講習などもあるわけだが、それとは意味合いが違う。
暗記して理解しきるまで何度も反復学習する、という形は自分だけで実施するしかないのだ。そればかりは他人が強制することも、授業や講義で補完することも出来ない。
最早覚えてもいないだろうが、今となっては手足のごとく使いこなせる日本語や四則演算も、幼い頃の自分が何度も学習した結果、使えるようになっているのだ。
学習量も難易度も大幅に上がっていくことを考えれば、より多くの時間をかけて反復練習をしなければ、しっかりと知識を身につけ、受験本番で使いこなせるほど脳と身体に染み込ませることはできない。
参考書を一回やるだけでは全く意味がない
授業や講義と同様のことなのでここで言及しておくが、評判のいい参考書を買っても、一度やるだけでは意味が無いと断言しておこう。
似た問題が出てきたとき、参考書の内容を思い浮かべ、解法を瞬時に思い出し、目の前の問題に落とし込むようにできて初めてその参考書で学習した意味があるといえる。
その状態になるまでには、同じ参考書を何度も何度も繰り返して、覚えられていないところを抜き出してまた学習し、徹底的に自分の血肉にする工程が必要になってくる。
以前の記事でも紹介したとおり、忘却曲線的にも何度も復習して覚えていくことが重要だ。
せっかくだから宿題も有効利用する
宿題に成績向上の効果が見られない、という記事が一時期話題になったりもしたが(間違った解釈をしているという記事も多いが)、どうやら日本の学校ではなくなることはなさそうである。
しかし、どうせ宿題をやらなければならないのであれば、受け身で授業を聞くのとは違う、自分なりの理解を進めよう、という主張をしておきたい。宿題も自習の一貫であり、無為に消化するだけではもったいないものだ。
漢字や単語の暗記にしろ、制限時間と正答率をきっちりと測るのであれば、立派な問題演習になる。学習ひとつひとつに意味をもたせるのは大変な作業ではあるが、漫然と消化しては本当に苦痛なだけで終わってしまうだろう。
数学であれば演習にしやすいし、英語であれば読解として挑むことが出来る。
授業の予習復習も兼ねて、自分なりの理解を深める機会を逃さないようにしよう。
何事も捉え方と取り組み方だ。
限られた時間で成果を出すためには、少しでもいいので工夫し、身になるよう試してみよう。
自学自習こそ勉強の根幹
大学生や社会人になっても勉強する必要はある。
知りたくない現実かもしれないが、それがほとんどの場面で事実である。
今話題のYoutuberになろうと思っても、良質なコンテンツを作るための企画の立て方、動画編集の方法、必要な機材の知識、見てもらうための戦略、生活していくために必要な再生数や案件の算出、個人であれば確定申告をはじめとした税務面の最低限の知識、等など少し考えただけで新たに学ぶ必要があることは多い。
純粋な肉体労働系でも、もしかしたら身体の動かし方やメンテナンス法を学ぶことで事故を減らすことなどもできるかもしれない。
より生産性の高い、良い仕事をしていくためには学習が必要なのだ。
周りを見回してみると、勉強していない人が大半であるため必要なさそうに思えるかもしれないが、他の人に比べて成果を出している人の大半は勉強を続けている。
しかし、大人になって学習しよう、と思っても、大抵の場合周りには教えてくれる人がいない。
そうなったとき、自分で調べ、学習し、試し、直し、を繰り返して成果に繋げなければならない。つまりは自学自習が必要になるわけだ。
受験勉強において最も重要といってもいいこの「自習力」は、この先の人生でずっと君を助けてくれるだろう。
調べたいと思えば洪水のような情報にアクセスできる世の中だ。
勉強する気さえあればいくらでもできるこの世界で、その姿勢を今のうちから覚えていこう。
大学合格という成果とともに、決して習得して損はない姿勢であるといえる。
編集後記
正直なことを書くと、学生時代のわたしは宿題をこなすだけで割と必死であり、予習はおろか復習すら怪しかったことも多い。
ただ、最低限宿題をこなしていたことで、積み重ねが必要となる数学や英語の学習が致命的なまでに遅れることにはならなかった。(暗記が苦手だったので、理社に関してはかなり痛い目をみたが)
理解がしっかり出来ていない単元でも時間をかければ解けるようになったし、何を言っているのかわからないレベルの問題に出会うこともなかった。
しかし、そういった「わかった!」と自分でハッキリわかるような瞬間というのは、いつも自習のときだったように思える。
予備校が全く無意味だったとまでは言わないが、活用方法を間違えていたかな、というのはどうしても思ってしまう。そこにお金をかけてもらうくらいであれば、両親に美味しいものでも食べてもらえばよかったなぁ、などと思うのだ。
結果として志望した国立大学に受かったので最低限の恩は返せたと思いたいのだが、あのときに戻れるのであれば、より自習の時間を作って学習を進めるだろうなと思う。
受験生に限らず、誰しもが自学自習の有用性と威力を早くに気づくことを祈っている。